紙の知識

2.紙の歴史2≪日本≫

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1)日本への伝来と発展

日本へ紙の製造法が伝来した最古の記録としては『日本書紀』の中で、飛鳥時代610年、高句(こうく)麗(り)の僧(曇(どん)徴(ちょう))によるものとされています。しかし、紙そのものは製造法が伝わる前に入ってきたと考えられています。日本での初期の国産製紙は唐紙を模範として麻を原料としたと推測されますが、やがて手頃な楮(こうぞ)が原料とされるようになりました。

聖徳太子が写経用紙の原料として楮(こうぞ)の増産を奨励したことはよく知られています。楮(こうぞ)の繊維を木綿として織物(妙)を織る代わりに紙をすくことは比較的容易だったと思われます。こうして楮は和紙の原料となりました。

日本で製造された最古の紙は奈良県の正倉院に保管されています。702年に作られたとされるこの紙は美濃、筑前、豊前の戸籍で、楮紙(ちょし)と呼ばれています。

日本で紙の需要が高まったのは仏教を広めるためと言われています。最古の印刷物として有名な『百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)』は和紙の歴史史上最も重要な文化遺産です。770年に6年もの歳月をかけて100万個作られました。様々な紙で作られた経文は、木製の塔に入って、現在も一万個ほど残っています。

最初は写経に使われていた紙ですが、平安時代に入ると貴族の間で行われていた和歌、漢文、書などに用いられるようになりました。より質の高い雁皮紙(がんぴし)が利用されるようになったのはこの頃からで、806年には京都に紙屋院(かみやいん)という製紙工場も建設されました。雁皮を原料とした紙は薄くて丈夫で美しく、細字でもにじむことなく正確に書くことができるようになりました。雁皮紙は『斐紙(ひし)』の名で愛称されました。

鎌倉時代、室町時代にも紙は発展していきます。京都は永く王城の地として国風文化の中心となりましたが、その風俗、習慣は紙とともに地方へ広がりました。雨の多い土地に生活するための知恵は、紙を室内の調度へと応用されました。屏風や襖紙は外光を穏やかな散光として室内に反射させたり、室内の湿気を吸着して室温調整を図ったのです。しかし、当時、紙は庶民には手の届かない高級品でした。

江戸時代になると、農民の副業として紙すきが各地に広まり、紙の生産量が増大したため値が下がり、一般庶民の生活にも入ってきました。傘屋、提灯屋、障子屋、造花屋など紙を利用する職業も増えていき、生活の必需品となっていきました。この頃には、紙屑屋(かみくずや)という古紙回収する商売もあり、現代と変わらない紙のリサイクルも成立していました。文化面でも紙の需要は高まり、瓦版、浮世絵、かるたなどに用いられるようになります。江戸末期に日本を訪れた西欧人は日本の紙文化に驚嘆しました。

このように日本に独特の紙文化が発達した経緯は、日本の風土に根ざしたものです。和紙は長く伝承された生活の中で合理性の高い材料だったと考えられます。

2)和紙について

■主原料

●麻

くわ科に属し、漢名は大麻。一年生草本で用途の広い植物。茎の靭皮(じんぴ)は紙となる他に、魚網、帆布、蚊帳、かたびらにも織られ、麻(あさ)殻(がら)は火薬の原料にもなる。古くから神聖な神前に供える一部に加えられ、人間の生活に非常に密着していた。

日本では天平期に麻をすいていた。現存している奈良時代の紙を基準に、麻紙が一番多く、穀紙(こくし)(楮紙(こうぞし))、斐紙(ひし)も若干残っている。現存する数千巻の勅願経のほとんどが麻紙を用いている。古文書に記載される麻紙の名称は「白麻紙、白短麻紙、白橡麻紙、黄麻紙、常麻紙、唐麻紙、唐短麻紙、唐長麻紙」などがある。麻紙は一番手の掛かる紙だったので、この製法は絶えてしまった。現在の麻紙は、昔の麻紙とは全く別のものである。

●楮(こうぞ)

くわ科に属し、山野に自生する落葉低木で「かぢ」「かぢのき」「かぞ」「かず」など様々な名称で呼ばれている。昔から多く使われた紙の原料で、現在でもかなり広範囲に使用されている。主な種類は、麻(あさ)葉(ば)、要楮(かなめ)、真(ま)楮(かじ)。楮(こうぞ)の繊維は長くて強いので、叩解機を使用すると特質を失う可能性があるので、今日でも臼でついたり、盤の上で叩いたりして処理している。従って、機械すきには不向きで、手すきに向いた原料と言える。どの紙にも劣らない特徴は、湿度に強いことで、伸縮が少なく加工に強いのが大きな利点である。古くから障子紙、傘紙、提灯紙、膏薬(こうやく)紙に使用され、奉書(ほうしょ)、檀紙(だんし)、帳簿用紙にも多く用いられている。

●雁皮(がんび)

じんちょうげ科に属す。茎はあまり太くならず、野生で大きいものは3メートル以上にもなるが、2メートルくらいが標準。人工栽培ができないため、山野に自生しているものを立木のまま生剥(いきはぎ)にする。雁皮(がんぴ)の繊維は三椏より細く、長く半透明で光沢があるので、紙質もしまって強く薄絹のように美しい。その上、変色せず虫もつかないので、麻紙に代わって和紙の王として今日まで重宝されている。美術、古文書、色紙、短冊、扇面など、高貴な紙として、また薄く丈夫なことから版下用紙、記録用紙として使用されている。

三椏(みつまた)

和紙の原料の中では最も新しいもの。じんちょうげ科に属する雙(そう)子葉(しよう)植物で、雁皮(がんぴ)に近い植物だが栽培は可能。落葉の灌木で、静岡、山梨、高知、鳥取、岡山、徳島、愛媛、鹿児島で栽培されている。茎は高さ2メートル程に達し、枝は必ず三椏(みつまた)に分かれるのでこの名がついた。花は黄色の円筒状で、茎の内部が製紙原料となる。繊維は短く、優美で緻密な紙肌を作る。明治時代に駿河半紙として広く使われた紙は未晒(みさらし)の三椏紙で、薄い茶褐色をしていた。楮紙に比べると多少柔らかみと光沢があり、習字用紙や帳簿用紙に用いられる。その後白い用紙が普及したので、未晒の駿河半紙も白く漂泊され、改良半紙となった。

【三椏紙の優れた特徴】

  • ・紙にシワがよらない
  • ・機械的処理で繊維の粘度が変更でき、用途に応じた抄紙ができる
  • ・三椏の皮に一種の毒素が含まれるため、防虫になる
  • ・偽造が困難
  • ・偽造が困難
  • ・日本で栽培しやすい

【三椏紙の欠点】

  • ・湿気により伸縮し、水分にもろい

●竹

中国では古くから竹が紙の原料だった。日本では竹(ちく)膜紙(まくし)として正倉院文書にその名が残されている。近年は画仙紙などの原料として竹パルプが多く配合されている。

●バナナの幹

フィリピン産バナナの古い幹が累積した古い根を掘り起こし、その繊維を特殊な蒸解法(PA法)でパルプ化し、一部書道用に混入し使用され始めた。ニジミが少なく、かな作品用に適している。

●稲藁

副原料として使用。紙肌を滑らかにするが、紙質がややもろくなる。わら縄・俵などの使用したものの方が、書道用として墨色がよく出る。

●萱(かや)

簀桁に竹ヒゴの代わりに萱を使用すると、簀の目が広く、和紙らしい特色がでる。

■ネリについて

和紙をすく時、原料繊維を水中に1本1本むらなく分散させておくために「ネリ」が必要です。一般的にネリの原料にはトロロアオイの根が使われます。トロロアオイの根には非常に水に溶けやすいカラクチュロン酸という多糖類が含まれているので、根をつぶして水に漬けると、粘度のある液がたくさん溶けだしてきます。この液を袋に入れて、すき槽に入れて原料と一緒に撹枠します。するとネリは1本1本の繊維を包み、繊維は絡み合うことなく水中で分散します。

■製法

【和紙の製造工程】(一般的な製法)
木を蒸し、皮を剥ぎ表皮を削り靭皮(じんぴ)(白皮)にして、川に晒す。
皮を煮て、その後アクを抜く(清流で洗い流す)。
塵を取り除き、繊維を取り出す。
この繊維を叩解(叩いてほぐす)する。
紙をすく。紙料液(叩解した紙料に水、ネリを混ぜる)を作る。簀(す)桁(げた)に竹ヒゴや萱をはさんですく。 ・溜めすき…組み上げた紙料液を簀面に溜め、ゆっくり縦横に動かし簀目の間から液を滴下させて簀面に残った紙料で紙層を作る。 ・流しすき…紙料液を上桁の枠内で動かして流し、余分な液を流し捨てて紙層を作る。 繊維の薄い膜「初水」、紙の厚さを調整する「調紙」、余り水を流し捨てる「捨て水」の三段階操作をするのが原則。
圧搾(あっさく)(紙を絞る)、乾燥(乾かす)、選択(紙を選んで不良紙を除く)、そして枚数を揃えて裁断し、規定された単位で包装する。
【代表的な和紙の種類と用途】
種類 用途 産地
檀 紙 儀式用包装紙・ふすま紙・文書用紙・表具用紙 福井
奉書紙 儀式用料紙 福井
典具帖 包装紙・合紙・版下用紙 福井・高知
鳥の子 ふすま紙・文書用紙 福井
障子紙 障子紙 埼玉・山梨・長野 福井・愛媛・高知
襖 紙 ふすま紙 埼玉・福井・兵庫
半 紙 書道用半紙・ふすま下張 静岡・島根・愛媛
傘 紙 傘紙 埼玉・茨城・岐阜
傘 紙 傘紙 埼玉・茨城・岐阜 富山・和歌山・島根
局 紙 賞状・美術印刷・株券 福井・岐阜
箔原紙 箔灯紙 兵庫

3)和紙生産の変化

和紙の生産量は1900年過ぎまで伸びていきましたが、その後、洋紙の生産が伸びてくると、洋紙に負けないように技術改革・機械化が進められました。機械抄き和紙と言われる紙が出回るようになり、昔ながらの手すき和紙は減少していきました。生活も様式化していく中で、これまで根付いていた和紙文化は変化していきました。

国内で洋紙製造が始まっても、最初のうちは品質も悪く、和紙は生活の中で必要とされていました。貿易も始まり和紙の輸出も増加し、国内では教科書にも和紙が使用されました。和紙の生産ピークは1901年で、その時の生産戸数は7万戸に迫る勢いでした。洋紙の発展する中、生き残りをかけて機械化が進み、原料に木材パルプを混ぜたり、紙を晒(さらし)粉(こ)で白くしたりしましたが、結果、品質低下を招くことになりました。

4)和紙から洋紙へ

1889年以降、日本では亜硫酸パルプ、砕(さい)木(ぼく)パルプが製造できるようになり、木材を原料とする基礎ができました。1900年ごろから新しい抄紙機が取り入れられ、1903年には、教科書用紙は和紙から洋紙に変わりました。1909年には洋紙の生産量が和紙の2倍になり、その後も新しい技術が取り入れられ、製紙産業は国内で更に発展をしていきました。

現在、国内の和紙の生産量は、紙全体の0.3%程度となっています。しかし、洋紙にはない風合いや美術的感性を求めた高付加価値の部分では重要な役割を担っています。和紙と洋紙は競合するのではなく、それぞれの価値を十分に生かしていくことが大切だと言えるでしょう。

【日本の洋紙の生産量推移】
年代 1902 1915 1928 1940 1955 1970 1985 2002 2008
千トン 47 215 725 154 2,200 12,970 20,469 30,686 30,617
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